過保護と思いやり

 先日、何年かぶりにボウリングに行く機会があった。夏休みということもあって子ども連れが多く、ボクの左右のレーンにはそれぞれ小学生くらいの子どもがいる家族たちがプレイしていた。

 

 右のレーンの子どもは男の子。見るとガターにならないためのガードがついていた。これ、最近はどこのボウリング場にもある設備だと思うのだけど、プレイヤーがお店に申し出ることでこのようなオプションを付けることができるのだ。当然ながら男の子の投げたボールはガターになることなく次々とピンを倒していく。しかし男の子はふてくされていた。雑なフォームで投球したあと、ボールの軌道も確認しないまま振り返り、家族たちと目を合わせることもなくヅカヅカとベンチへ戻ってくる…というあからさまにスネた態度だったのだ。原因はわからないが、もともとガターが頻発したためふてくされてしまい、それをなだめるために両親がガードのオプションを追加した…。もしくはガードのオプションを付けられて子ども扱いされたことに対してふてくされてしまった、のどちらかではないかと勝手に解釈していた。いずれにせよふてくされた男の子に対して家族たちも何かフォローをすればいいものを、自分たちは各々でボウリングを楽しんでいた。自分が楽しめないうえに家族たちに放置され、男の子はもしかするとボウリングが嫌いになってしまったかもしれない。

 

 片や左のレーンは女の子。祖父と一緒にプレイしていたが、うまく投げられなかったため、祖父がコーチ役を買って出ていた。そのコーチスタイルは手取り足取り。端から見ていてもちょっとやりすぎな印象ではあったが、この丁寧な指導のおかげで女の子は次第にコツをつかみ、ボクたちが帰ることにはすっかり上達していた。短時間でこれだけうまくなれれば、きっとボウリングが好きになったことだろう。

 

 この対極的な2つの家族の姿を見て、思いやりとは何かを考えさせられた。近年は子どもを守るためという名目で、さまざまな策が講じられたり規制が設けられたりしているが、その中には「これは本当に子どもたちのことを思いやった内容なのか?」と疑問に感じるものも少なくない。ガターを防ぐガード、確かにこれがあればどんな投球だろうと必ずピンを倒せるし、その爽快感を喜ぶ子どももいるだろうから一概にダメだと言うつもりはない。しかしこれによってボウリング本来の緊張感は失われてしまう。もちろん、ある程度年齢が上がり、ボウリングに慣れてくれば無用なオプションなのだが、こうした保護がある限り子どもたちは“うまく投げられるようになろう”とは思わないだろうし、そんな緊張感のないシステムはつまらなく過保護であると個人的に思う。

 

 例の男の子も、そんな過保護なシステムで家族からお茶を濁されたことに不満を感じていたのかもしれない。対して祖父からコーチを受けた女の子、一見過保護だが思いやりのある祖父のおかげで結果的に上達し、ボウリング本来の楽しさを知ることができた。どちらがよかったのかは結果論でしかないけれど、本当に子どものことを思いやるのであれば、この祖父のような“過保護”であるべきだと思う。

 

 こうした保護は子どもだけに言えることではない。クルマの自動運転や絶対にぶつからないブレーキシステムもそれに近い部分を持っている気がする。人々の安全を守るすばらしいシステムだが、一方でドライバーは運転技術や危険察知力を養う機会を失う。そう考えると、それらのシステムを持たない未完成なクルマの方が、ある意味ではドライバーを守っており、図らずともだが思いやりのあるクルマだという見方もできる。結果をあらためて見てみると、何ごとにおいても“保護すること”と“思いやること”はイコールにはならないといえる。未完成なものは何とかして保護すべき改善すべきだという考えも大切だけれど、相手のことを思いやる心がなければ結果的にプラスにはならないこともある。そんなことを人情の街・大阪のボウリング場で学んだのであった。

サブロー

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サブロー

ほめられて伸びるタイプを主張するクセに、ほめられることをやらない36歳。出身地である徳島県の一級河川・吉野川の別名“四国三郎”から、このニックネームに命名された。映画やマンガにすぐ影響される悪癖があり『ベストキッド』を観て空手を始めたり、『バリバリ伝説』を読んでCB400SF(当時は大型二輪免許を持っておらずCB750Fに乗れなかった)を買うなどの単純明快な行動が目立つ。

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