なぜ魚なら許されるのか?

先日水族館へ行ってきた。考えさせられたのは、作られた波が打ち寄せる人口磯とイワシの水槽。人口磯は、その名のとおり、コンクリート製のプールに人口的な波が打ち寄せるというコーナーだけど、観ていて妙な不自然さを感じたのでその理由を考えていたら、打ち寄せる波の規則正しさがその原因だと理解した。波の間隔、大きさ、打ち寄せる範囲、泡の立つ場所、すべてが均一。文字どおり等間隔に同じ波が打ち寄せている。「寄せる波は一つとして同じものがないように…」なんてことを慣用句として言ったことも書いたこともあるけど、この歳にして「自然の波って本当に同じものがなかったんだ。」納得できたしだい…、ってどうでもいいですね、こんなこと(笑)。

 

さて本題、さらに館内を進んだ僕は、何百何千という大量のイワシが泳ぐ水槽を前に立ち尽くしてしまった。イワシがサメと一緒の水槽で泳いでいたからだ。だって、イワシとサメですよ? 餌と捕食者、そのまんまの関係じゃないですか。別にイワシがかわいそうだとか、動物虐待だとか言い出すつもりは毛頭ない。「この状況を、みんなはなぜ平然と見ていられるのだろう?」と単純に思ったのだ。事実、僕の前にいるカップルは、「キラキラしてキレイ~!」などと言いながら2ショットの写真の背景になんとか“サメに追われて逃げ惑うイワシ”をフレームインさせようとご執心だ。幼児を連れた家族は、イワシの群れを蹴散らすサメに「ホラホラおさかなさんだよ~。大きいネェ~」と、ほのぼのとした雰囲気を全開で放出している。

 

いやいや、どうみてもこの図は「サメに追われて必死に逃げるイワシ」にしか見えんだろう? そんなほのぼのとした空気で見ていられる風景じゃないだろう? イワシの大群を蹴散らして進む数匹のサメ。サメはサメで別の餌を与えられて満腹だから、そうそうイワシを襲うことはないらしいし、単にイワシだけを飼育するより、この方が活性化してイワシの病死が少なくなるそうなのだが、それにしてもあまりにも酷な扱いじゃない?
では、この図をちょっと哺乳類に置き換えてみよう。数匹のライオンに追われて逃げ惑う数百匹のウサギ。「ライオンには十分餌をあたえてますので、襲うことはめったにありません」と言われたって狭い敷地で右往左往するウサギを見るのはツラくはないか? 「この方が活性化してウサギたちの病気も少なくなったんです」と言われたって、“そういう問題では…”と思わないだろうか?

 

そんな話を知り合いのカメラマンにしたら、返す刀で「俺はあのマグロの解体ショーというやつがよくわからない」と言われた。確かに、よく考えるとあれもスゴイことである。人が大勢あつまるイベントで「本日は、マグロが手に入らなかったので、代わりに牛の解体しま~す! ざくざくっと二つに割った頭から、よっと。こんな感じで切り出しましたこの肉塊が牛の舌。みなさんおなじみのタン塩のタンでございますッ!」なんて始めたら、たぶん場内は大変なことになる。以前、小ヤギをつぶして山羊汁にする現場に立ち会うことになってしまったことがあったが、喉笛をかき切って血を抜きながら絶命させ、解体。かなりのスプラッターショーだった。切り出されてすぐのまだ暖かい肉塊を持ったとき「こいつ、ついさっきまでオレに頭をぶつけて“遊んでくれよ”と、じゃれてたんだけどなぁ…」と複雑な気持ちになった。ええ、もちろんおいしくいただきました。だって、食べないと何のために殺されたかわからないからね。

 

閑話休題、話をもどそう。なぜ人間は、いや日本人はなぜそこまで魚に冷たく…、という表現は違うな(笑)。哺乳類に対してはできない所業を魚類には平然と行なえるのか? 考えてみれば、活けづくりだの、踊り食いだの、料理もなんだかスゴイものばかり。この違いはやはり人間が哺乳類だからなんだろうか? それとも単なる“慣れ”なんだろうか? ローマ時代の映画に出てくる、人と獣が殺しあうコロッセオなんかも慣れれば「いやぁ、今日のはよかった」なんて批評家気取りで観ていられるようになるのかねぇ。

やたぐわぁ

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やたぐわぁ

本名/谷田貝 洋暁。「なるようになるさ」と万事、右から左へと受け流し、悠々自適、お気楽な人生を願うも、世の中はそう甘くない。実際は来る者は拒めず、去る者は追えずの消極的野心家。何事にも楽しみを見いだせるのがウリ(長所なのか? コレ)だが、そのわりに慌てていることが多い。自分自身が怒ることに一番嫌悪感を感じ、人生の大半を笑って過ごすことに成功している、迷える本誌編集長の44歳。

コメント 3件

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    by kanag2013/11/6 10:58

    カゲで同じ事をやって表では何事もないように見せ物にするより公平だと思って俺は見てます。動物園や水族館という存在自体もそこにいく客も本来はおかしいわけですし。自然環境と園とどちらが動物にいいのかは永遠の謎ですね。
    解体ショーに関しても同じ気持ちです。食べる以上本当は同じ事をしなければ食べられないわけで、手慣れて捌く技術を残酷だと主張するほうが胡散臭い/姑息な気が俺はしてます。魚も肉売り場も野菜も死骸が並んでいてそれを見比べて買ってるわけですからね。
    バイクにしてもロングツーリングでどこどこへと言ってもコラムと同じ話法で言えば電車で行くべきですし。バイク誌のそういった特集も植物に害を与えることを平気で推奨してるとなってしまいます。
    多少脳が発達してる生物の場合は避けられないんですかね。
    家畜を育てるだけでかなりの二酸化炭素が排出されるし、肉を減らし魚や野菜の割合を増やして頂点捕食者として食べ過ぎないようにするぐらいしかないのかなぁ、なんて思ってミートフリーな日をたまに設けてます。

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    by 白髪じじい2013/11/6 21:23

    ううむ・・・。実に深い内容ですなあ。哲学的というか何というか。

    最近では魚も養殖ものが多くなっておりまして、畜産と一緒でござんす。
    畜産というのは、毎日手入れをして可愛がりながら、最後は殺して食ってしまうという職業でござります。いや、殺すために飼っているのでありやんす。

    我が家で飼っている犬や猫を殺して食えるか? こりゃあ無理でっせ。

    でも畜産業は人間様が食っていくための手段であります。
    今では飼う人(畜産農家)と殺す人(食肉処理場)とが分業になっているので、畜産農家の心理的負担は随分少なくなっているのでありましょうぞ。

    自分が生きるために動物を太らせて殺す。そうせねば自分が飢えて死んでしまう。
    これが畜産業の本質なのでありましょうね。

    畜産業を主な生業としてきた西欧人たちは、死ねば終わりだということを目の当たりにして生きてきました。
    だから、西欧人は、やるか、やられるかの競争意識が強いのでありましょう。
    死ねば終わりですからねえ。自分が生きるためには手段を選んでおれません。

    一方、温暖湿潤な気候に恵まれたアジアでは、稲作を中心に耕種農業で生きてきた歴史がありまする。
    植物は、刈り取っても翌年、また生えてくる。種をまけば再生する。
    だから、死んでもまた別の生き物になって生まれてくると言う輪廻思想が生まれたのではないかいなと考えるわけ。

    というふうに、畜産主体の西欧と耕種農業主体のアジアでは人の考え方にも差が出てきたと思う次第でありやす。

    そういう目で見ると、やたぐわぁ様のお考えは、極めてアジア的でありますな。

    で、親が子によく言いますなあ。生き物の命をいただいて生きてるのだから、ちゃんと最後まで残さず食べないとだめだよと。

    いやあ、色々考えさせられる実に深~いコラムでありました。
    時にはこういうのも良いんではないでしょうか。
    白髪頭を掻きながら、そう思った次第であります。

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    by きんたろす2014/5/21 21:43

    やっぱ貴方は浅はかな人間ですね。
    海外で、すし屋とか同様の事言われてます。
    命と言う事をもう少し考えませんか?

    カナダでは豚を育てその豚を殺して食うとか、授業でするそうです。
    人間が罪深き生き物で有ると実感させるのですね。

    マンガの「銀◯匙」でも同様の話が有ります。
    もう少し、ましなコメントしましょう。

    じゃあ、サハリパークでは避難轟々ですか?
    アフリカの自然保護区でも同様ですか?
    以上。

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