歯医者とボク

「人生で一度も歯医者にかかったことがない」と言うと、たいていの人が驚く。正確に言うと30歳のころに親知らずを抜いたので、一度もないわけではないんだけど、少なくとも30年間は足を運んだことはなかった。どうもウチは代々、恐ろしく歯が丈夫な家系らしく、兄弟たちも虫歯や矯正とは無縁の生活を送ってきた。

 

だけど一族の血をもってしても親知らずだけはどうにもならないようで、兄弟たちも親知らずには悩まされていた。

 

ちなみに普通乳歯から永久歯に生え変わる際、乳歯は自然と抜けるものだが、ボクはその事実を成人するまで知らなかった。というのも、ウチの家系の人間は歯の根(歯根というらしい)が異常に長いため、たとえ乳歯であっても自然に抜け落ちることはなく、強制的に人力で引き抜かなければならないという運命を背負っていた。そしてその痛みが地獄の苦しみなのである。だから、同級生たちが「おれ、きのう歯ぬけたんよ」なんて笑顔で話している姿を見て「コイツは地獄の苦しみを味わった翌日に、よくそんな笑顔を見せられるな」と妙に感心していたものだ。

 

話は戻るが、30歳になったボクは親知らずを抜くために歯医者に行った。医者が「以前はどこか別の歯医者さんに?」とたずねてきたので歯医者そのものが初めてですと答えると院内が騒然とした。三十路男性でそういう患者は初めてだったらしい。そして親知らずを抜くため治療台に横になったのだが、そこの歯医者は相当腕がよく、患者に痛みを感じさせずに歯を抜くことができるそうなので、ボクは安心していた。「長くても20分くらいで終わりますよ」と歯医者さん。

 

ところが治療時間はあっさり20分を超え、歯医者とその助手がなにやら慌てている。しだいに麻酔が切れ、かつて子供のころ味わった地獄の苦しみの10倍くらいの痛みが口内にほとばしった。歯医者もこの時間は想定外だったらしく、そこからさらに麻酔を打つ。そして作業をしているとまた麻酔が切れる、という地獄絵図のような治療が続いた。

 

ほどなくして「抜く」のではなく「砕く」ことで歯茎から親知らずが取り出された。ガーゼの上に置かれたそれはもはや歯ではなく、ただの石灰石のカケラのようだった。医者の話だと歯根が深すぎて、通常の方法がまったく通用しなかったため、治療が難航したとのこと。かつて味わったことのない痛みに頬を押さえながら、ボクは病院を後にした。

 

それまでの人生「歯医者にかかったことがない」と言うと、たいてい「虫歯の治療ってイヤな音がするし痛いんだよ。あの苦しみを知らないなんてイイなぁ」とうらやましがられたものだ。でも頬をパンパンに腫らしたボクは「ああこれは、30年間知らなかった歯医者の苦しみをたった数日で経験するとこうなるんだな。ちっともうらやましくなんかない、人生ってよくできてるよ」と家系の血を憂いながら帰路についていた。

 

今のところ、身内以外でボクと同じような体験をした人って出会ったことがないんだけど、もし出会えたら一晩中歯のことについて語り合いたい。子どものころの苦しみ、大人になってからの地獄…体験したことがない人にはいくら話しても「ヘー」で終わってしまうけれど、どこかにこの気持ちをわかってくれる人がいると信じてこのコラムを書きます。ボクと同じ歯の苦しみの体験をお持ちの方、どんな形でもいいのでご一報を…

サブロー

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サブロー

ほめられて伸びるタイプを主張するクセに、ほめられることをやらない36歳。出身地である徳島県の一級河川・吉野川の別名“四国三郎”から、このニックネームに命名された。映画やマンガにすぐ影響される悪癖があり『ベストキッド』を観て空手を始めたり、『バリバリ伝説』を読んでCB400SF(当時は大型二輪免許を持っておらずCB750Fに乗れなかった)を買うなどの単純明快な行動が目立つ。

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