山村に残る芸術品

現在発売されているタンデムスタイルには、長野県・戸隠のツーリングレポートが載っています。今回もいい取材ができたと思いますので、ぜひ誌面をご覧いただきたいと思うのですが…。今日のコラムは「誌面ではスペース的に触れられなかったけれど、ぜひ伝えたい!」ということについて書こうかと思います。

戸隠高原の南西あたりに、鬼無里(きなさ)という地区があるのですが、取材の最後にここへ訪れたのです。とくに意図があったわけでもなく、「へぇ、鬼が無い里と書いて『きなさ』って読むのか…。不思議だな…」と思った程度。そこに何があるかなどもまったく調べていませんでした。

…で、たまたま『ふるさと資料館』という施設があるのを見付け「この土地のことを何も知らないし、とりあえず見ておくか…」と思って入ってみたのですが…。ここで! 完全に度肝を抜かれたのです!! 中にはさまざまな展示物があるのですが、その中でももっとも注目すべきなのが、鬼無里の祭りで使われたという山車(だし)です。この山車は江戸後期〜明治初期の作品が多いそうで、寺社仏閣の彫刻師、北村喜代松とその弟子による彫刻がほどこされている…とのこと。もちろんボクは、北村喜代松なんていう人のことなんて知りませんし、そもそもこの資料館があることすら知らなかったくらいですから、完全に油断した状態。「ふーん、山車ねぇ…。まぁ見てみるか」と思って近付いてみたところ…!

その彫刻というのが、とてつもなかった! ものすごく細かな技巧が凝らされた、すばらしく芸術性の高い彫刻だったんです! 一本の木、一枚の板から削り出して作られた(つまり、継ぎ合わせていない)大きな彫刻。「カゴの中に鳥が入っている」という状態を、削り出しで作ってしまうという技術。もうね、口に出てくる言葉としては「くはぁ…」とか、そういう感じです。とにかく、世界に誇るべきとてつもない芸術性。ボクとしては、日光東照宮よりもよっぽどインパクトがありました。しかもそれが、庶民のお祭りのための山車にほどこされているんですから。時の権力者が贅を尽くしたわけではなく、あくまでも「生活の中にある芸術」だった。この事実にもう、大感動してしまいました。

かつてボクは、房総半島で「波の伊八」の彫刻を見たことがあります。この人は江戸時代中期の彫刻師だったのですが、当時の彫刻師の間では「関東に行ったら波は彫るな」と言われたほどの名工。伊八の彫刻を見たときにも、今回と同じように度肝を抜かれたのですが、ホント、江戸時代の彫刻師ってすごいのです。伊八の彫刻も、お寺の欄間に彫られているので、やはり「庶民が普通に見られる芸術」だった。そういう事実もすごい。

鬼無里という地区をどれだけの人が知っているかわかりませんが、そんな山里にも世界に誇るべき彫刻があること。さらにそれが、時の権力者が占有していたものではなく「庶民に親しまれてきた芸術」であること。なんかね、日本の奥深さというか層の厚さというか。そんなものを感じてしまいました。「やっぱこの国、スゲーな…」と。ボクはやっぱり、ニッポン大好き。ツーリング大好きです。あらためてそんな風に思うのです。

マンボサイトー

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マンボサイトー

「マンボ」というニックネームはマンボウ似であることから名付けられ、当初はかなり嫌がっていたものの、最近ではそれほど気にならなくなってきた。ビッグバイクよりも中小排気量 の方が好き、人気車種よりもマイナー車の方が好き、というあまのじゃくな性格の持ち主でもある。

コメント 1件

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    by ロクスケ2013/8/27 04:12

    長野ネタということで、ケンミンとして口を挟まずにいられなくなりました。
    鬼無里といえば「いろは堂」のおやきで知ってる人がけっこういると思います。あとは、鬼女紅葉伝説でしょうか。能や歌舞伎にもなってます。そもそも、最初から鬼がいなければ、鬼無里なんて地名にはならないわけで、かつて鬼がいて、それがいなくなったからこその地名なんですね。
    それにしても、江戸時代の日本って、相当に豊かだったんですよね。
    ひとつにはもちろん、それだけのものを作れる技術を持った職人が越後や信濃にいたということ。
    そしてまたひとつには、そんなものを作らせるだけの経済力が、鬼無里のような谷あいの里にあったということ。
    秋になったら(もう秋ですね)、白馬・大町から鬼無里を走って来ようと思います。

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